守破離

先週の日曜日は能楽を鎌倉芸術館に見く。
今更ながら能楽というのは能と狂言のセットのことを能楽というのかと気づく。(遅すぎました・・・)

さて、能のシテである観世銕之亟さんがプレトークということでお話されていた。
能というのは型を覚えて、型通りに演じなければならない非常に制約の多い演劇だ。
それでも銕之亟さんは、誰もが型通りに演じても個性はにじみ出てくるとおっしゃっていた。
逆に言えば、型を覚えて型通りに演じてからにじみ出てくるものが個性なんだと。

テレビ東京で久米ひろしが久しぶりにテレビに出ていた。
タイトルは「にっぽんの食卓」。

70代ぐらいの女性をスタジオに集めて、自分の子供に料理を教えたことがあるか聞いていた。なんと、70代ぐらいの女性は自分の子供に料理を教えた経験がほとんどないそうだ。

現在、70代の人は子供時代を戦時中に育った人がほとんどだ。だから、戦争中は栄養があるものを食べられなかった。子供時代に家庭の食事をしっかり食べていなかったのである。

そして、小学校のときに戦争が終わり価値観のパラダイムシフトが起こった。教科書は墨で塗りつぶされ、アメリカから自由と民主主義が導入された。

70代の女性は口をそろえて言う。

「娘には娘の価値観があるのだから、自分の価値観を押しつけない方がいい」

なるほど、それはもっともだが日本料理は何百年という伝統がある。その伝統から出てきた料理の型というものが存在するはずだ。
(私は型など身につけておりませんが・・・)

それは理屈でいい悪いという話ではなく、守るべき型なのだろう。
それでも能と同じくにじみ出る個性というものはある。

まずは守るものがある。それでも個性は充分に発揮できる。

北島康介は平井コーチのもとを離れてアメリカに渡り、ひとりで練習している。
自分でテーマをもって、自分で練習している。
北島選手は充分に守はできているから、今は破になっているのだろう。離が完成したときにはロンドンでも充分に結果を残せるのではないかと思っている。

自分はと言えばまだ守ることさえできていない。
今までのルールをその通りにすることさえできない。
だから守にさえ達していないのだろう。

これにはある程度の経験が必要だ。
だから、今は守に専念して破離はまだ先だと思うようにしている。
そして、その中でもにじみ出てくるモノがあり、それを感じてもらえるととてもうれしい。

村上朝日堂はいほ~! 村上春樹

内田樹先生の「村上春樹にご用心」を読んでいたら、村上春樹の本が読みたくなってきた。

今回は村上春樹のエッセイを読んでみる。

村上朝日堂はいほ~」は、1983年から「ハイファッション」というファッション雑誌に連載されたものがほとんど。

なんでもこの女性編集者は村上さんにとって相当怖かったらしく、
恫喝されてタコ部屋で組み伏せられた、とあとがきで書かれている。

ノーベル賞にもっとも近い作家と言われている人に
そんなことするなんて。。。^^

当時はそれでもOKだったのでしょう。(たぶん)

1983年と言えば時代はバブル真っ盛り・・・

このエッセイの中でもマンションへの投資話が出てきます。
マンションの投資を勧められたのに村上さんは断っています。
このマンションを買えば、自動的に値上がりして2000万円の利益が入ったと書かれていました。誰もがバブルに浮かれて財テクしていたという時代に。

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でも結局我々はそのマンションを買わなかった。
何と言われようと、僕にはそれは株券には見えなかったからだ。
それは一つの部屋であり、人が暮らすべき空間であった。
自分が好きになれないものなんて金を出して買いたくない。
それは我々の信念であった。
そう言うと彼はあきれて、それ以来我々にはいっさい財政的な忠告をしなくなった。
きっと馬鹿だと思ったのだろう。
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「自分が好きになれないものなんて金を出してかいたくない。」
こうした感覚ってとても大切だと思う。

もう私たちは、自分が好きかどうかという感覚すらわからなくなっている。
TVCMや雑誌広告、ネット広告、わたしたちは1日に2000ぐらいの広告を目にしているという。
だから、その商品が欲しいのは本当の自分なのか、それとも他者から与えられた価値観なのかわからない。
よくあるのが「みんな買っているから」「ネットの口コミをみて」「売れ筋ランキングをみて」というもの。

それは他者の価値観ではないのか。
そうした消費を自分が選んでいると勘違いしてしまう。

やはり、迷ったら自分に聴いてみるというのが基本なのだ。

そして最後は「貧乏はどこに行ったのか?」というタイトルのエッセイ。
村上さんも昔はかなり貧乏だったらしい。

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貧乏は実に楽しかったのだ。
夏の糞暑い午後に頭がボォっとして喫茶店に入って冷房の中で
アイスコーヒーが飲みたくても、女房と二人で「我慢しようぜ」と
励ましあってやっとの思いで家にたどりついて麦茶をごくごく飲む・・・
それはそれですごく楽しかったのだ。
それは昔のことだから楽しいというのではない。
それは金とは関係ないことなのだ。
それはいわば想像力の問題なのだ。
想像力というものがあれば、我々は大抵のものは乗り切っていけるのだ。
たとえ金持ちであろうが貧乏であろうが。
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お金があろうが、なかろうが、私たちに必要なのは想像力なのだ。
お金がないと、思考の90%がお金のことにとらわれてしまう。
それでもその思考を変えるだけで、わたしたちは「絶望」からも「みじめ」からも抜け出すことはできるのだ。

それは村上春樹だからなんだろ?と思うかも知れないが、そんなことはない。
村上春樹は貧乏な時期を楽しく暮らしていたのではないだろうか。
それがなかなか居心地がよかったのかもしれない。
そういったことが文章からも伝わってくる。

村上さんの文章は、人間のプリミティブな部分を掘り起こしてくれるのではないか。きっと脳の部分でいうと脳幹に響いているのだと思う。

だからあれだけの人を惹きつけることができるのだろう。

ここに出てくる「うさぎ亭」主人の文章を読むとうまいコロッケが食べたくなる。まさに五感を刺激される文章なのだ。

村上朝日堂はいほー! (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社
売り上げランキング: 106469
おすすめ度の平均: 4.0

4 意図的に軽さを抑えて
5 日常生活は宇宙よりもひろい?
4 どうでもいい事柄、するどい洞察眼に
5 うさぎ亭のこと
3 作者の素顔が垣間見える

村上春樹にご用心 内田樹

村上春樹は小説には「うなぎくん」が必要なのだという。
作者と読者、そしてうなぎくんの三者協議。

以下、村上春樹さんのインタビューから引用。
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みんな読者と作家のあいだだけで、ある場合には批評家も入るかもしれないけど、やりとりが行われていて、それで煮詰まっちゃうんですよね。
でも、3人いると、二人でわからなければ「じゃ、ちょっとうなぎに訊いてみようか」ということになります。するとうなぎが答えてくれるんだけど、おかげで謎がよけいに深まったりする。
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うなぎって、NLPでいうパートとかフォーカシングでいうフェルトセンスみたいなものなのだろうか。

あるいはディズニーストラテジー、ポジションチェンジでしょうか。

ひらめいたのは、村上春樹はきっと人の無意識あるいは普遍的無意識の中に、透明人間のようにスゥーと入っていける人なのではないかと思う。

通常は意識がブロックするところも、何もなく自然に、そして穏やかに入ってしまう。その入ったことさえ気づかずに。

だから、あれだけの人に読まれているのだろう。

それを構造だという人もいる。確かに構造なのだろうが、構造にはあがらえない。