宮崎駿に学ぶ部下の育て方

部下や後継者を育てるのは大変なことですね。育成は早く、簡単に、効率的という言葉に縁がないのではないでしょうか。

実は、あるところでも後継者育成に苦心していました。

それは、なんと・・・・・・スタジオジブリ!

今週のNHKで放映されたので見た人もいるのではないかと思います。

ジブリ 創作のヒミツ 宮崎駿と新人監督 葛藤の400日

宮崎駿さんは69歳です。本人曰わく、もう監督ができるのはあと1本だろうということです。
しかし、宮崎駿の後継者になれるような人は、今まで聞いたことがありません。

そこで、現在公開中の「借りぐらしのアリエッティ」は37歳という若いアニメーターの米林宏昌(通称マロ)さんにすべてを任せることになったのです。

マロさんに任せるにあたり、宮崎さんはあることを決めました。

「いっさい口出しをしない」

それは宮崎さんの節度だといいます。監督は自分自身で決めてOKを判断する。それに口出ししてはいけないと。

宮崎さんは、マロさんが考えた絵コンテを見ませんでした。
そのことにスタッフは動揺を隠しきれない様子でした。
本当に大丈夫なのか。制作費数十億円の映画がこけたら、世界のスタジオジブリの名に傷がつく。

しかし、それを一掃したのは宮崎さんがスタッフ一同を集めて説明したときでした。

「自分は絵コンテをいっさい見ていません。マロにすべてを任せます」

そのときスタッフは、もうマロさんについていくしかないんだ。自分たちでやるしかないんだと思ったことでしょう。

宮崎さんがここまで思い切った後継者育成に乗り出すには訳がありました。
宮崎さんは以前も監督を任せることをしてきたのですが、自分のこだわりから現場に介入して、衝突することもしばしばだったといいます。
宮崎さんの後輩に、近藤喜文さんというアニメーターがいました。近藤さんは映画「耳をすませば」の監督をされた方です。
近藤さんが監督をしていたときも、宮崎さんは演出方法で近藤さんと幾度も衝突したといいます。そして、ときには強引に演出を変更させたのでした。

もともと病気がちだった近藤さんは、映画完成の2年後に病気でなくなりました。
その時のことが、今でも宮崎さんの心にしこりを残していたのです。

最初は、慣れない様子で監督をしていたマロさん。自分で原画をチェックしながら進める方法は大幅に進行が遅れていました。それでも、予定通り映画を完成させることができました。

宮崎さんは、アリエッティの完成試写を見たとき涙していました。
そして、試写が終わってから宮崎さんは、マロさんと堅い握手を交わし、マロさんの腕を高々と上げて言いました。

「本当によくやってくれました」

初監督のマロさんにねぎらいの言葉をかけたのです。
マロさんは満面の笑みを浮かべていました。

宮崎さんは、初めての監督するマロさんに言いたいことは山のようにあったと思います。それをすべて喉の奥に飲み込んで、最後にねぎらいの言葉をかける。
宮崎さん自身が後継者育成に苦慮してきたことからの成果ではありますが、徹底して自分の決めたルールを守る。これはなかなかできることではありません。
こうしたことがあってこそ、マロさんは監督という重圧をかかえながら期待に応えることができたのでしょう。
試写会が終わった後は、師弟の新しい空気が流れていました。

人が成長する姿というのは、本当に美しいと思います。

借りぐらしのアリエッティ 感想(ネタバレあり)

 「借りぐらし」という言葉はあまり聞いたことがないと思います。借りぐらしというのは、小人が人間からいろいろ借りて生活するということなんです。

 Webのメッセージをみると、なぜ今この企画なのかということを宮崎駿さんが語ってくれています。

http://www.karigurashi.jp/film_message.html

この不況だから消費する時代は終わった。だから、借りて生活するというのがこの時代には合っているのではないかということだ。

そんな意味があったんですね。わたし、見ててそこまでは気づいていませんでした。^^
でも「借りぐらし」ってなんとなく響きがいいですよね。

あらすじ
 アイエッティは郊外の一軒家の軒下にパパとママと暮らしている小人である。そこに翔と呼ばれる12歳で心臓が悪い子供が病気療養にやってきた。
 アイエッティは翔に姿を見られてしまうが、なんとなく信頼できそうな人間でもある。しかし、小人は人間に見られたことで違う家に引越をしなければならなくなった。

この映画を見て感じたことは、自分の価値観で相手を判断してはいけないということです。

小人には小人の世界があり、そこには小人の価値観があるのです。

翔は勝手に小人の家を壊して、ハウスドールの台所をあげようとするし。(本人は悪気はなかった)
そもそも小人というだけで人間と同じ言葉もしゃべるのに、ハルさん(お手伝いのおばさん)はネズミか虫の扱いのように接しています。

わたしたちは自分たちの知らない世界、異種なもの異文化、ライフスタイルの違いなど、初めて接したときに自分たちの価値観で判断して推し量ろうとしていしまいます。(観念のメガネがあると言いますが)
それが、相手にとって大迷惑であるかもしれないのに。

代表的な例でいえば、アメリカのイラク侵攻などでしょうか。
異なる宗教、異なる文化の土地で勝手に民主主義を押しつけたように感じます。本当にアメリカ的な民主主義でいいのでしょうか。今でもイラクが平和になったという話は聞きません。

私たちが知らずにかけている「観念のメガネ」を、まず取り払うことから始めてみたいと思わせる映画です。

ハウルの動く城

宮崎駿
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
発売日:2005-11-16

ソフィーはなぜおばあさんになる呪いをかけられるのだろう。最初はおばあさんになる理由がわからなかった。ソフィーを旅立たせるためというのもあるのだが、後にハウルの母親役になったり、マルクルの母親役になったり、カルシファーを手名づけたりしている。ソフィーはヒロインで主人公でもあるが、グレートマザーの役割も果たしていることがわかる。
 もう一つ疑問に思うのは、ソフィーが簡単に旅に出てしまうことである。大抵の主人公は旅立つことを拒否するものであるが、ソフィーはためらいもなく旅に出てしまう。
 すでに自分の使命がわかっているかのような旅立ちである。最初からハウルを助けることが、自分の使命であることを無意識が知っていたのであろうか。その後、誰に頼まれるでもなく掃除婦をしていることも主人公の積極性がある。主人公が主体性を発揮しているのは、おばあさんになっているのからなのか。後半は性格がナウシカに似ていると感じた。